人の名前を呼べない

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どうも田中です。
私が今まで生きてきた中で生きづらいと感じたことは多々ありますがその中でも、代表的なことのひとつに人を名前で呼べないというのがあります。
この現象は理解できる方と理解できない方にはっきり分かれる人間関係における妙かもしれません。
できる人(名前で呼べる)には何でもない行為なのに、私のようにそれができない人にとっては多大なハンデとストレスがのしかかります。きつい。

人の名前を呼ぶのが苦手というのは少数派だと思うので、世間的に分かりやすい表現でいうと、例えば、以下の通りです。すごく偏った主観ですが(笑)
私は男性なので男目線で表現させていただきます。

事例1
人に対する敬称を変える、姓から下の名前に呼び方を変える

初めて会った人の初期段階でその人の名前を呼び始めるステップがあると思います。その時最初から呼び捨てにするパターンはあまりないと思います(学生時代における先輩後輩の関係が明らかな場合は例外として)。
なので最初は、「君」とか「ちゃん」とか「さん」とか敬称をつけて呼ぶわけですが、この初期設定で呼び始めた敬称を親睦度合の深さに比例して呼び方を変えるというのは多少エネルギーがいるかと思います。
ちょっとその時のノリでフレンドリーに相手に対する呼び名を変えて、相手の反応を見て、また気分次第で遠慮がちな呼び名に戻したり、とヒット&アウェイを繰り返しながら、「あ、多分、呼び捨てにしてもいけるな、もうそんな間柄になってきたよな」と判断して自然とそうなります。
(もっとも、そのためには信頼関係が必要ですから、相手のほうもこちらのトーン(接し方や親睦度)に合わせて敬称を変化させている場合には限りますが)
段階的に、相手を呼び捨てにするステップはそれなりに勇気がいることであり、前提としてソイツと仲良くなりたいという想いがないと実現できないと思います。(目下の人間で嫌いな場合は除かれるかもしれません)

こういうのは、わりと誰でも通る道なのかな、と思います(すみません、前提が私のような内向的で気が弱い方が多数いるという上でジャッジしており、外向的な方にとってはまったく何のことはない、理解の及ばない解説になっているかと思います)

ちなみに私の場合、この過程でどこかこじらて、
相手の名前をどう呼んでいいか分からなくなることが多々ありました。結局そうなってしまうと長い目で見て疎遠になります。

事例2
自分の親のことを呼べない

もちろん、こどもの頃は呼べていました、赤ん坊のころからそうしつけられていましたから当然です。しかし、思春期を迎え大人になる頃には、「おとうさん・おかあさん」と呼ぶのが恥ずかしくなってきて、私はどう呼んでいいか分からなくなった記憶があります。今(38歳)でも濁すように「おとう。ん。おかぁ。ん。」みたいな感じで発音します。

事例3
義理の親のことを「おとうさん・おかあさん」と呼ぶ

私は自分の親のことでさえろくに呼べないので当然かもしれませんが、私は妻の親、つまり義父・義母をおとうさん、おかあさんと呼べません。
昔のドラマでよく、結婚の許しをもらいに嫁さんの実家に挨拶に行った際に、「おとうさん、娘さんを私にください」「お前におとうさんと呼ばれる筋合いはない!帰りなさい!」なんてシーンがベタに描写されていましたが、まさに私はそのとおり、逆にいうと私には嫁の親をおとうさん・おかあさんなどと呼ぶ資格はないと恐縮しており、もういい加減水臭いだろ!と思われても仕方のない年数(結婚して10年)が経っても未だに、あの、、えっと、、というように呼ぶことができません。名前を呼ぼうとすると胸から込み上げてくるも喉でつまって出てこない感じになります。

人の名前を呼ぶのが苦手になった経緯

これまでの人生を振り返ってみると、こういう人の名前を呼べない現象は思春期を迎えるころに発動しました。
それまではそれほど人をどう呼ぶかということに関してはそんなに苦労してきた記憶がありません。

やはり、ある程度周囲の人間関係が固定化してきて、周囲はとあるA君のことを「A、A」と呼び捨てにし始めて、確かにそういうキャラとしてA君のポジションが確立しつつあるときに、自分がその波に乗れず、でも周囲に迎合したい、、という合間の中、結局どう呼んでいいか分からない、呼び捨てだと失礼だしかといって従来通りの呼び方もなんか照れくさいし、誰もそういうふうに呼んでいないし、あか抜けないし、、と、自分の中で納まりが悪く、結局名前を呼べない状態が一番ナチュラルになってしまう、というのがあります。

特に、私の場合は特殊?なのか相手との距離の縮め方が苦手なようで、かえって距離のある相手の名前は呼べるのです。
君とか、さん、とかつけていれば済む話だからです。

それが、付き合った間柄、関係的に水臭くなる時期(逆にいえば仲良くなっている証拠ですが)、そういう時期の調整が苦手なようで、ここで名前をどう呼ぶかで苦労するようになるみたいです。
あんなに仲の良かった親族や、彼女(妻)、いつも一緒にいた友人などと距離をうまく縮めきれないのかなんなのかよく分かりませんが、シャイさが発動するのでしょうか、結局名前が呼べないのです。

呼べたとしても清水の舞台から飛び降りるような気持ちでやっとの思いで、しかも名前で呼んだあとも自意識過剰に相手の反応をイチイチ伺うような始末なのです。

さらにこじらせると、その人のことを直接呼ばない場面、例えばその人Aがいない中、数人で喋っていてその人Aの名前を呼ぶ必要に迫られたとき、スムーズに名前を発することができず苦労するなんてこともあります。

これってたくさんある人生の悩みのうち、どうってことはないことのように思えますが、QOL(生活においての質)を大きく損ない、見過ごせないハンデとなります。

人の名前が呼べない苦労

名前が呼べないからその人と喋れない、関われないというわけではなく、むしろ普段関わり合いがある状態なのに名前を呼べないから悩むわけであって、つまりは何気ない瞬間ですら、相手の気を引く一声に「名前」を使えない制約があると、どう声掛けするかで余計な労力を使うことになるのです。
おい、ねえ、、と一段落置くのか、いきなり本題をぶつけるのか、、本当これはコストです。

今だ、この、この瞬間に、相手の名前を呼べるようになろう、そのための第一歩に今、相手をこう呼べたらいいという名称で呼ぼう、、、あっ、タイミング逃した、、あっ今なら大丈夫、

「。。。〇×、(うにゃうにゃっ)」

振り絞った声を発する、、
、、、届いていない、、相手に聞こえきれていない、、ああ、せっかくの大砲を打ったのに当たらなかった、、とうなだれて途方にくれます。

しかし、これは、なんとしてでも努力して乗り越えなければならない試練です。
相手は、呼ばれてうれしいからです。逆にいうと名前を呼んでくれない人に対して親近感など抱きにくいですよね。

人は名前で呼ばれると喜ぶもの

実際に心理学的にも名前を呼ばれることで心地よくなる、相手に親近感を抱くという事例があるそうです。
学術的にどうこう以前に考えてみればその通りですけど。。誰とも仲良くなれる外向的な方を見ているとよく分かりますが、本当にあの方たちは頻繁に相手の名前を呼びます。話しかけるときは必ずそうですし、会話の途中でもよく名前を使います。
名前を呼ぶから社交的になれるのか、社交的だから名前を呼べるのかはなんともいえませんが、どちらもまた正解だと思います。

一方で、私のように人見知りな方ほど相手の名前を呼びにくいわけで、だからどうやってよべるようになれたらいいのかなんていうこともありますが、、それは、私の経験則では、先延ばしにしないで、今だ、今なら相手の名前を呼べると思ったその時に頑張って呼ぶことがいいかと思います。先に延ばすほど、呼びにくくなっていきます。呼びにくくなることが定着すると相手にもなんかぶっきらぼうな印象を与えるようになります。

もっとも、それはそれで悪くはなく、私の祖父なんかは祖母の名前を呼べない人でしたが、終生祖母に慕われていました。ですから、決してそういう名前を呼べないことが人生において決定的な損失を意味するわけではないと思います。

もう少しワルに生きてみる、相手に嫌われてもいい、
自分は相手との距離を縮めたいからこそ、名前で呼ぶんだ、呼び方を変えるんだ、と意識して、でも意識しないで接することがいいと思います。

いずれにしても年を重ねると否が応でも(内向的な人にとっては若い頃より)図々しくなっていくものですから、こういう名前を呼べない悩みは薄れていくものです、そういうふうにゆったりと構えて、、
いずれ呼べるようになると信じて生きていきたいですね。

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